2016-01-11

子供とのスピリチュアルトーク


理由は忘れてしまったのですが、
何かちょっとしたことで怒ったまま、
何を言っても何をしても怒りの気持ちが長引いていた息子との会話です。

私「ずっと怒ってても、自分が苦しくなっちゃうだけだよ。

怒っている気持ちはママ、十分にわかったよ。
でも、そろそろ、『ま、いっか~』ってしようか。」


息子「やだ」


~以下、私の言葉はピンク、息子の言葉は青で示しますね~



「そっか。やなんだね。でも、どうしてママがこういう風に言うか知ってる?」

「なんで?(ふて腐れながら)」


「だって、これ、遊びだから。」

「え?」
(ふて腐れながらも、興味をしてしてる)



「ここはね、プレイグラウンドなんだよ。全部遊びなの。」

「どういうこと?」



「今ママはあなたのママだけど、ママの役をやって遊んでるの。

あなたはママの子供の役をやって、遊んでるの。

大きなプレイグラウンドで。」



「それって、
この前僕とL(妹)がお医者さんごっこして
Lが痛いって言った足を僕がなおしてあげてた遊びみたいに?」


「そう、そしてくまさん(ぬいぐるみ)が看護婦さんの役だったでしょ?

それとおなじ。
 皆、いろんな役をしてるの。

パパはママと結婚する役、そしてあなたのパパの役。」


「じゃあ、僕たちは小さなお人形さんで、
神様が上からそれで遊んでるの?」


「大当たり!すごい~。よくわかったね。そうなのよ~。

だからね、あなたが今怒っているのも遊びの一つ。

遊びだから、それを真剣にやり過ぎないで、長引かせないで、

楽しくしちゃった方がいいと思わない?」



「そうだねえ。。。でも、ママだって怒ることあるじゃない。」



「うん、ママも怒るよね。どういうとき怒るっけ?」


「僕が悪いことしたとき。」


「そう、本当に危ないことしたとき、言ってもやめない時だよね。」


「うん。」


「そんな時はママ、真剣に怒ってるけど、

でも、その裏の、本当の事は何だと思う?」



「遊んでるの??」

「そうで~す!!」


「じゃあどうして怒るの?」


「その感情を、体験したいんだよね、遊びの中で。

だからどんな感情でも持っていいし、表現していいんだよ。

遊びだから。感じたいんだから。

でも、その、出来事に対してあまりに真剣になったり
完璧主義になったりするのって、
楽しい遊びかな~?」


「ううん、違う。」

「そしてさ、ママが怒る時って、

『ママの言う事聞きなさい!』とか、

『子供なんだから』とか、

『子供は親が言ったことをしなさい』とか言ったことある?」


「ない。」

「どうしてかわかる?」

「ううん。」

「だって、親も子供も、その役を演じてるだけで、本当は同じだよね。
これ、わかる?」


「うん、皆、同じ魂だから?」
(↑これは小さな頃から話してあるので既に理解してるみたい)


「そうそう。
だから、親だからってえらいわけでもえばっていいわけでもないじゃない?

親という役だから先に生まれてるけど、
実際は子供から親が学ぶことの方が多いんだよ~。
ありがとね~!」


「ママも、ありがとう!」


「こうやって、私たちの魂が、
家族って役を決めてここに一緒に居られてママはすごく嬉しいんだよ。
それだけで幸せなの。」

「僕も!
でもママ、僕、魂でいたいよ。
身体って、いらないんじゃない?」


「あはは。そう思うのね。

でも、今ここで、目に見えてるのは身体だよね。

この身体を通して
この地球っていうプレイグラウンドで遊んでるんだよね。

ここでの遊びのために、この身体っていう道具を使ってるのに、

これがなくなっちゃっていいのかな?」


「そうしたらもう僕、
ここでママの子供の役として遊べないね~。」



「うん、身体を持った子供としては、遊べないよね。
だから、大切にする方がいいと思わない?」


「大切にする方がいいと思う!
神様、これで遊んでるんだもんね。」



「うん、でも、その、神様ってだれ?」


「えっと、宇宙にいる、宇宙を作った人?」


「そうそう。ただ、人じゃないかな~。
ほら、前に見せた、
宇宙の始まりの本の一つの点だよ。覚えてる?」

※宇宙の始まりの本:
私が読んでいたフラワー・オブ・ライフの本に興味を示したので、
見せたことがありました。
その本についてはまた機会を見て書きたいと思います。


「うん。
まず一つの点があって、そこからそれが二つに分かれて、
またそれが分かれて、どんどん増えていった。
その一番初めの一つの点。」


「そうそう。
で、分かれて分かれてたっくさ~んになったそのうちの一つが
私たちの魂だよね。」


「うん。」


「だから、あなたが今神様って呼んだそれは、

私たちの魂の始まりで、

私たちの魂と一緒ってことだよね。」


「うん!全部一つ。」


「でね、その、神様って今呼んだものは、
人によっていろんな呼び方をしてるよね。」


「どういうこと?」


「あなたはママの事をママって呼ぶけど、パパはRって名前で呼ぶでしょ?

他の人は、Mさんって名字で呼んでる人もいるし、
全く呼び方をしらないひともいるよね。」


「そっか!それと同じなんだ!」


「そうなの。
神様って呼んでいる人もいれば、
天って呼んでる人もいれば、

純粋意識って呼んでる人もいれば、
初めの意識って呼んでる人もいれば、

その一つの点には
いろ~んな呼び方があるよ。

あなたは何て呼びたい?
二人で何か、ニックネームつけちゃおっか。」



「僕は、世界を作った一つの点って呼ぶ。ママは?」


「ママは、宇宙の源って呼んだりしてたけど、どうしよっかな~。」

「源ってなあに?」


「一番はじめの、元のものってこと。」

「じゃあ、宇宙の初め一つって呼ぼう!」

「うん、そうしよっ☆」



「でもさ、皆神様って呼んでる人たちがたくさんいるじゃない?
神様って、何人いるの?」



「そうだね~。
神様とか、イエス様とか、モハメッドとか、
いろんな存在を神様って呼んでるよね。

人によってその数は違うよね~。」


「どうしてなの?」


「それはさ~、
さっきの、宇宙の初めの一つからどんどん増えていって、

でも、私達よりもっと前の、まだ、二つとか4つとか、

まだそんなにいっぱいは数が増えてない部分の存在を呼ぶのかもしれないし、

そうしたら、4つの部分を神様と呼んでる人がいたり、

32の部分を神様って呼んでる人がいたり、

色々なんじゃないかな~。

そして、
その人たちが信じてる数とか部分とか存在によって、

宗教になるんじゃない?

キリスト教とかモスリム教とか仏教とか。」

(↑シンガポールの多民族多宗教の中での暮らしのおかげで、
宗教の多様さはなんとなく知っているみたい)




「そっか~。」


「でもさ、その一番元は何だったっけ?」

「宇宙の初めの一つ。」

「そう!だから結局、皆一つ、皆同じなんだよね~。」

「うん!!」



「T君が怒った感情のおかげで、なんか楽しい話になっちゃったね。ありがとう!」

「僕も、ありがとう!」



そして、彼の怒っていた感情をなだめに部屋に入った様子を
見届けていた義理の母が(ドイツから義理の母が来ています)
部屋の外で待っていたので、


「いい話してきたよ~。ね!何の話だっけ?」

と私が聞くと、息子は、

「いっぱいあり過ぎて、もう忘れちゃったよ~!」

と。


あはは。

でも、それでいいんです。

忘れてしまっていいの。

あなたの潜在意識が知っていることを
思い出す会話の後、、

顕在意識が忘れたふりをしてしまっていいの。



必要な時に、思い出すから。
思い出したいときに、思い出すから。



その種を、私に撒かせてくれてありがとう。




義理の母は、さっきと彼の眼がちがうと言って、
感動しながら彼に

「Gute Nacht(お休み)」と言いました。



息子は6歳。

こんな年齢の子ですから、

そんな話が分かるわけないと思って
深い話をしない選択もありだと思います。



でも私が選択するのは

母親としての役割の中で、

彼が、彼の魂が既に知っていることを共有する気持ちで
こういう話をしてみるということ。

そして実際に、彼は目を輝かせながら
その話を楽しんでいました。


目は、魂に通じる場所。


彼の魂が、

輝きながら

私との会話を楽しんでくれたという事だと思います☆




子供とのスピリチュアルトーク、楽しすぎる。

ママという役を演じさせてくれて、ありがとう♡♡♡








2015-12-14

Christmas decor 2015 in tropical Singapore / 常夏シンガポールで、クリスマスデコレーション



11年間の本場ドイツのクリスマスを体験した後、
2年目の常夏クリスマス。

やはりこの時期は
本場の深遠で聖なるキラキラ感を懐かしく思いますが、

郷に入れば郷に従え。

夏のクリスマスに身を任せるとしましょう☆




毎年少しずつ集めてきた
クリスマスデコレーション。


いくつもの段ボールを掘り起こして
思い出に花を咲かせつつ、

ノースリーブで汗をかきながら
クリスマスの施しを。


家具はすべて
ドイツからそっくりそのまま持ってきているので、
クリスマスの飾りつけをすると

家の中は
ちょっぴり本場のクリスマスを思い出させる感じになったかな。




ダイニングは、ゴールドを基調に。

キャビネットにつるしたリースのリボンもゴールド、
即席で縫った、ダマスク織のゴールドのテーブルランナーに
シルバートレーを置いてセンターピースを作りました。

テーブルランナー自体はあまり写真に写っていませんが、
ドイツの寝室のカーテンを縫った際の残り布です。







シルバートレーのクローズアップ。
ゴールドのトナカイは、息子のお気に入りです。
ガラスジャーの中にゴールドの松ぼっくりやオーナメントを詰め、
ゴールドのキャンドルも添えました。

白いツリーは、実はツリー型キャンドルです。









玄関を入ったすぐ横にある暖炉。

マントルピースの飾り付けは赤とゴールドのミックスに。

いつもはトープ色のキャンドルも、
赤に差し替えました。




少し引いて、斜めから見るたマントルピースと奥の様子。

15年もこの仕事してるけど、
常夏のシンガポールに暖炉を持ち込んだ人たちは
あなたたちが初めてだわ!

と、入居の際にエイジェンシーに驚かれたのは
この私でございます。

冷房やプールで体が冷えてしまったら、
どうぞ暖を取りにいらしてください(笑)。


 

上の写真の奥の方に見える、
フォーカルポイントでもあるこのコーナー。

普段は写真立てがたくさん飾ってあるのですが、
期間限定で小さなツリーをのせてみました。



カラーコンセプトは、
パープルのトナカイさんに合わせて
パープル×ゴールド。

少量のみ薄いグリーンも加えています。







こちらはなんだか
二枚の写真を合わせてるように見えるけど、

ダイニング側に座って暖炉を見た角度からの、一枚の写真。

ちょっとゴールドが多過ぎ感ありかも(笑)。


コンソールの上の鏡には、
小さなリースをダブルにして吊ってみました。

このダブルリースには
雪のスプレーをかけて白くお化粧を施したので

合わせてリボンも白に。






あとはちょこちょことフィギュア達でコーナーを飾ったり





涼しげなブルー系でまとめたり



ゲストルームの一角には、
グリーンを足してみたり・・・・


と、所々でクリスマスを感じられる様にしてみました✩


楽しそうにデコレーションをしている私を見て、
ママ、僕もママみたいに、
プレイルームを自分で飾ってもいい~?

と、嬉しそうにいう息子。

あれよあれよと言う間に、折り紙で沢山のツリーを切り始めました。


リース型にして窓に貼ったり、壁に列べて貼ったり、






毎日毎日少しづつ飾りが増えてゆくので
今ではこの写真よりも

壁の飾りがいっぱいになっています。



このコーナーも息子のセンスで。


何よりも、
子供が何かを楽しんでやってる姿を見るのが
一番楽しい☆


伝統的、文化的、宗教的なドイツのクリスマスも最高だけれど、
まあ、常夏のクリスマスも悪くないかもね✩

素敵なホリデーシーズンを!






2015-12-10

クリエイティブメディテーションお茶会を始めました✩



【クリエイティブメディテーションお茶会】
を始めました✩

メディテーション/瞑想は

私の趣味のひとつでもあり
特技の一つでもあり、
人生において
欠かせないもののひとつでもあります。


メディテーションにも色々なスタイルがあって、
私自身もその時々で様々な形でしていますが、

いずれにしても

その恩恵の素晴らしい事!


その恩恵と楽しさを
他の方々ともシェアしたくて
長い事温めて来ました。


そして、
やっとやっと
行動開始です!



第一回目の本日は、

Body & mind 、

体と心の密接なつながりを体感して頂く
面白いイマジネーションの遊びから入り、

簡単なリラクゼーションテクニックを
シェアさせて頂いた後、

深い誘導瞑想を体験して頂きました。

誘導瞑想の部分は、
グループヒプノセラピー
にも近い形になりまりますが、

皆さん
深くリラックス&リフレッシュできて

部屋中に心地良~いエナジーが
充満していました。

体も心もゆる~くなって、
同時にすっきりリフレッシュ!!


私はといえば、
趣味だと言っているくらいなので
いつでもどこでも
クイック瞑想をしてしまいます。


もちろん部屋でゆっくりとすることもあれば

スターバックスで
目を開けながら瞑想をすることもあり、

はたまた歩きながらしたりもしますし、
買い物のレジの列ですることもあります。


最近一番長かったのは、
メイドさんのパスポート更新の際でした。

彼女はインドネシア人なので
インドネシア領事館に出向いたのですが
(雇用主も同行しなければならない決まりです)

なんとなんと、
その混みようは、5時間待ち!

生憎携帯電話の充電も殆なく、
携帯で時間を潰すこともできない。
本も持参していない。

あ、メディテーションしちゃおっ。

と、一人で、

時には目を開け時には目を閉じ、

いくつかのバージヨンに分けて
待ち時間中瞑想していました。


そのおかげで、
長い待ちに
イライラすることもなく、

逆にとても気分よく、心すっきりな状態で
更新を終わらせられたのです。

メイドさんはあまりの長さにくたびれた感じと
私に対してすまなそうな感じでしたが

私自身は
文句を言うことも全く無しに、
ニコニコしながら接し続ける事が出来ました。


この経験は、
改めて瞑想の楽しさ、
そして自分自身の脳との遊びの楽しさを
実感させてくれたものでした。


そんなわけで、
皆さんと分かち合いたい

【いつでもどこでもメディテーション✩】


第二回目、
日程はまだ確定していませんが

「リリース&チャージ」

をテーマに開いてみたいと思っています✩



ブログでも、
メディテーションについて
ヒプノセラピーについて
意識について

もっともっと書いてゆけたらな
と思っていますので

どうぞ楽しみにされていてくださいね✩



2015-11-20

「許せない」という気持ち、ありますか?でも、許す必要なんてないのかも。


許せない、
と思ったことが、ありますか?

過去に傷つけられた心の痛みや憤りで、
まだそれらを許せていない事がありますか?

許そうって思っても、
許せない自分がいたりしますか?



そういった時、
心理学系、カウンセリング系のお話の中で
まずは自分を許そう。
許せない自分を許して、
丸ごと愛そう
と言う事を言われます。


うんうん、本当にそうだと思います。


そして私も
、過去の痛みに関する事柄や人を、
許したいのに許しきれない自分がいたり
(表面的には許していても、まだ傷が痛むということは許しきっていないという事)

逆に自分が犯してしまった過去の過ちを
許したいのに許せない自分がいたりして、

これまで、様々なヒーリング・セラピーの学びの中で
許しのワークも幾つもやってきていました。

そして、
段々とそれらが開放されたとも感じていました。


基本となる
自分を許すワークは、
深~い癒やしを得られるし、

あ~、癒された~。

自分のことも、他の人のことも、許せた~♡

と感じたりもしていたのですが・・・・・


ふと、

『許しって、なんだろう』

という思いがよぎったのです。



許しって、なに??

果たして、許す必要って、あるのかな??

と・・・。



換言すれば、それは

『許し』 を ”超えた”

感覚でした。



私たちに起こっていることは、
全て愛から来て、愛の中で起こっている。

痛みも悲しみも辛い体験も、
私たちに、気付きを与えてくれるために
起こってくれている。


もっといえば、
わたし達の中の、高い高い意識の部分が
自分自身でそれを起こさせ、自分自身にそれを与えている。


その裏側にある

愛に気がつかせるために・・・。


その裏側にある

光に気がつかせるために・・・。



光は、
闇がなければその存在にすら
気づく事ができないから。


可愛い可愛い自分のために、
自分の、全体としての成長のために、
自分自身がより高まってゆくために、

鬼になって、敢えてそのような経験をさせている高次の自分。

いえ、鬼というよりも、それが愛。


可愛い子には旅をさせろ。
という言葉も然り、

そこには愛があるのです。


そしてまたその経験は、
自分がそれを乗り越えられる範囲以上のものは
起こりません。

もしもエゴが
「私の許容範囲を超えている!無理!」
と感じたとしても、

それは、高い意識から見れば
超えられるから与えているのです。

もしかしたらそれは、
越えられるぎりぎりのところかもしれない。

でも、
小さな出来事、小さな体験たちよりも、
それは、ぐんと大きな気付きが得られる
大きなチャンスでもあるのです。

そして気づきを得られた時、
そこには
愛が存在していた事を感じられます。

いえ、愛しか存在していない。

究極的な
無条件の愛しか存在していないのです。


そう思うと、
全て愛からきているものを

「許す」

ということ自体がおかしく感じられたりする・・・。

そんな思いに駆られていたら、

これまで許そうとしても
なかなか許せなかった事柄や、

人を許すには、
まずは許せない自分を許さなきゃ、

私の過去の過ちを、自分自身を許さなきゃ、

な~んて思っていたことが、

ふと、
あれ???
それって、必要ないよ。って、

突然全部消え去ったのです。


全ての事は
愛から生まれている・・・・。

 それなら・・・・、

許すって言葉自体

必要ないよね?


だって、何を『許す』の?

愛を??

あっはっは。

愛を許すなんて、なんだかおかしい。

そこには、感謝しかないよ~。


って、自分の内側から、

感謝と愛の感覚が溢れ出て、
涙が止まりませんでした。


それはまるで、
小さなコップの中で
あっぷあっぷと
おぼれかけている小さなアリが、
よいしょっとそのコップの淵を見つけて
外に出てみたら

あらまあ
そのコップの、
小さいこと小さいこと。

外の世界の
大きなこと大きななこと・・・・。

そんな感覚でした。


『許す』という感覚を、

超えた。


『許す』という感覚を
超えた時、

そこには、
無条件の愛と、
感謝のみが存在していることに気が付いた。


そしてすべてのものが
キラキラと輝いて見えて、

すべてのものが
愛でできていると感じる感動で、

胸がいっぱいになった。


そんな感覚に身を任せていると、
私の辞書の中から
『許す』
という言葉が
消えたような気がしました。


無理して許さなくていい。

視点を変えてみる。

高い次元から
すべてを見渡してみる。


すると、
「許す」という概念さえも、

消え去ってゆくから・・・・。



とはいっても、はい、
私も所詮
エゴをしょった一人の人間。

常にそのような状態でいられる域には
まだまだ達しておりません。

でも、あの感覚。

『許す』という響きさえ
馬鹿げているというか、

可笑しく感じてしまう程の、
全てを包み込む
愛の感覚。

それを思い出し、
心に留め、
目の前の事を楽しんでゆけたら・・・・・

そんな風に思いながら
書いています☆



もしも何かを許せなくて
負のスパイラルにはまっている方がいたら、

ちょっとこんな考え方もあるかもよ、、

という事を
頭の片隅にでもおいておいてみて下さいね☆


ふと突然に、
あなたの辞書から

「許す」

という文字が消える瞬間が
やってくるかもしれません☆



2015-11-16

Japanese BentoBox entertaining / 松花堂弁当のおもてなし

 
 
 
 
日本にいる母が送ってくれた
松花堂弁当箱を使ったおもてなしがしたくて、
 
しばらくの間うずうずしていました(笑)。
 
 
料理の腕も技も全くない私、
 
でも、普通~~~のおかずを詰めただけで
なんだかよそ行きに見えてしまう
 
松花弁当マジック!
すごい!
 
送ってくれた母に感謝♡
 
 
 
 
蓋を閉めた状態と・・・・・
 
 
 
 
 
 
開けたけど、空っぽの状態(笑)。
 
 
 
 
 
 
はい、コンテンツ、はいりました。
 
 
 
 
 
ね!なんとまあ、
ふつ~~~のおかずなコンテンツ(笑)。
 
 
 
お招きした友人は、
お腹にもう一つの命を抱えた
妊婦さん。
 
なので鉄分補給にひじきをとひき肉を☆
 
 
 
 
 
あ、そうそう、
これだけは少し凝ってみました。
 
手作りゴマ豆腐なのですが、
 
ゼラチンを使ったバージョンと
ゼラチンを使わずにフライパンで根気よく練って作ったバージョンを作り、
 
ゴマ豆腐テイスティングのように2種を用意してみました。
 
 
 でももうひとつの、
小さなグラスに入れた練りバージョンの写真を撮り忘れちゃった!
(今気が付いた・笑)
 
 
友人によると、
 
練りバージョンの方が
和食屋さんで出てくるような濃厚な味だったとか。
 
ゼラチンバージョンは
口当たりが比較的つるっとしています。
 
 
って、これを書いてて思いついた!
 
今度、ゴマ豆腐テイスティングパーティしたい!!!☆
 
 
実は今回、
白ごまバージョンと黒ごまバージョンに分けて作ってもあったのです。
 
で、どちらが美味しいかな~って
味見をしている間に量が少なくなり(爆)、
 
結局間をとって両方入っているものに決定したのですが、
 
 
テイスティングパーティではそれも全部分けてみよっと!
(って、そんなパーティ、ありかいな???笑)
 
 
 
ゴマ豆腐の話がついつい長くなりましたが(笑)、
周りには、醤油と出汁のジュレを添えてあります。
という事で締め。
 
 
 
 
もう一品は、鮭の麹漬けグリル。
 
焼く時に麹を取るのを忘れて焦げはじめ、
慌ててふき取りセーフっ!
 
って、いつも失敗談ばかりね(笑)
 
 
しかし、笑ってなんぼ、笑われてなんぼをモットーに生きている私、
自虐ネタで毎日過ごしているので
お許しを☆
 
ちなみにワタクシ、関西人ではありません。
関西人に憧れる、生粋の東京人でございます(笑)。
 
 
 
 
 
デザートは、過去に何度も作ってきた
水まんじゅう。
 
もっとバリエーションを増やしたくてレシピ検索するのに、
いつも簡単な元の鞘に収まってしまう。。。
 
 

 
 
 
お弁当箱左下のご飯については
なにげな~くスルーしちゃったけど、
 
美しい型がなかったために
なんとダイソーの、
赤ちゃんにおにぎりボールを作るためのふりふり器
で球をつくり、お花型に並べてみたという、
なんてチャレンジャーな試み。
 
 
扇型、もしくは美しいお花型が欲しいな☆
 
 
そしてそして、松花堂弁当には、
焼き物、煮物、お造り、ご飯などを入れるのが基本であるようですが、
 
 
ま、何はともあれ
素人の私、
これから精進します☆
 
おもてなしは
楽しいのが一番!
 
そこに加えて
料理の腕も、ぼちぼち磨いてゆけたらいいな☆
 

2015-11-11

肉体と魂との関係を通して、真の存在を思い出す。



子供の頃、とても違和感を感じていた
1つのことがありました。

それは、お風呂に入る前、
脱衣所で服を脱いで入浴する前の
 
ほんの何秒かのことでした。

 
服はすべて脱ぎ終わったにも関わらず、
まだ何かを脱ぎきっていないような気持ちの悪い感覚がするのです。

 
そこには、更に脱ぐものがあるはずなのに、
実際には何も脱げるものはないという

なんだか後味の悪いような感覚。



その感覚は頻繁に訪れ、
子供の私にとてつもない気分の悪さをもよおす為

私はその感覚から逃げる様に急いで湯船に入り込み、
温かいお湯でその感覚を吹き飛ばすという事をしていたのです。


 
その感覚についてもっというと、
それは、
体の内側と外側両方から同時にやってくる
身震いのするほどの強い気持ち悪さで
言葉で表現するのがとても困難な感覚でありました。


そして、何かを纏いながらここで生きていることの、
生きにくさ
というものさえ同時に感じていたのを覚えています。



けれども年齢を重ねてゆくと共に、
いつの間にかそれは
私の中で忘れ去られたものとなってゆきました。




 
さて、昨日の夜のでき事です。
 
突如としてその感覚が、再び私を訪れました。


 
今や大人になった私に訪れたその感覚は、
あの頃体験していた気持ち悪さをそのまま感じるという
主観的なものよりも、


何かを再体験、追体験しているような
客観的な感覚でした。


そして、

「あ、これ、あの頃の・・・・・!」

とクリアに思い出すと同時に、

当時の私にはどうしても理解することのできなかったその実体に、
はっと気が付いたのです。



それは、
この、『肉体』を脱ぐ

という事でした。


私たちは、この社会において

肉体を持っての自分が、自分自身だと信じ込まされています。


けれども多くの、そして多方面からの研究により、
肉体は実は
この世で身に纏っている、
いわば借り物のようなものであり、

『真の私』というものは
『魂』のみである

という見解が語られ、普及し、
そしてさらに言えば、

「思い出されて」きています。



そう、古代からの叡智を綴られた書物には、
その事は当然のように、
または基本の事のようにさえ記されています。
(そしてその魂の、更なる源のついてもしるされていますよね)


その、本当の自分である
『魂』という存在が、
今の、この体の中に入っているという
自分の姿。


私は、子供の時にそれを、感覚として知っていた、
換言すれば、
覚えていたのかもしれません。


そして今、
成人になる少し前くらいから始まった
真実への探求を経て、

現在の、様々な面で統合してきている状態の私に、
まるであの体験をを理解させるためかのように

突如として追体験をさせられた感覚。



今、はっきりと、
その感覚の正体を理解することができました。


肉体を、脱ぐ。超える。脱皮する。


今私がここで表現しているその意味は、
死のことではありません。


この、肉体というものを身に纏っている、
本当の自分、魂。

その存在が
どんどんと私の中での位置を大きく占めてきて、

子供の頃に感じていた

『肉体』という制限の窮屈さを超え、

肉体自体、肉体そのものを超えている。


いえ、言うならばむしろ、

肉体も受け入れた、統合された全ての受容がここにある、

それを伝えられるかのように

ひとつの閃光として、現れたのでありました。



私たちは皆、
生を持ち始めた時点ではまだ、
真のピュアな姿と感覚を備えながら生まれてきています。

それがこの世の中で、社会の中で、
玉ねぎの皮のように
何層にも何層にもいろいろなものが重ねられ、
付け加えられてゆき、

いつのまにか
真の、本当の自分を
忘れ去っていってしまっているのです。


そしてある人は何かがきっかけで、
またある人は時間とともに自然に、

真の自分を思い出す時がやってきたりします。


その時から今度は逆に、
今まで重ねてきたその層を
剥いでゆく出来事が起こったり、
意図的にその作業をしたりして

素の、真の姿に戻ってゆくようです。



私もこれまで、
その層を一枚一枚はがす作業を繰り返ししてきました。
そして今でもその作業を続けている途中です。


けれども、子供の頃に感じていた
この地での生きにくさのような感覚は
すっかりなくなっています。


子供の頃のあの、
『脱ぎきれない』感覚。

それはまさに
肉体であり、
そしてあの時点ではその後重ねてゆくであろうという
『層』であり、

真の自分へ戻りたいという
根源的な欲求からきた感覚であったに他なりません。


今、時代の流れは、
いえ、次元の流れはどんどんと変化しています。


その中で、私と同じように
真の自分へ戻る旅の過程で、
様々な体験をしていらっしゃる方も多いかと思います。


それは、今まで経験したことのないような、
何かとても困難な体験かもしれません。

もしくは私のように、幼い頃の感覚を追体験し、
その意味を明確に理解できるといった
開眼的な体験かもしれません。


またはただ、何かに背中を押されるような、
または、時間と空間の中で
自分が泳いでいるような、泳がされているような
つかみどころのない抽象的な感覚かもしれません。


もしかすると、何か得体のしれない
恐怖心を抱えている方もいらっしゃるかもしれません。




自分の内側の声に、音に、感覚に
耳を澄ましてみて下さい。

答えは、そこにあります。

答えは、そこにしかありません。


外にあるのは、
自分自身がその内側の答えにたどり着くための、
道しるべ的なサインです。


そのサインをひとつひとつ受け取りながら、
内側にある、真の答えを見つける時。


この世は幻である、ホログラムである、
という一元性の考えの中で

真の自分、魂が属している大いなる存在に
溶け込むような絶対感を感じている一方で、

二元性の中での、
こんな、答え探しの遊びの旅を楽しんでみる。


その旅の道端に、
私が昨日見つけた、
肉体と魂の関係性という

追体験プラス
閃光的開眼のギフト。


今、この文を書いているこの瞬間も、
クラウンチャクラと松果体が
ジンジンとすごい勢いで
波打っているのを感じています。




今、これを読んでくださっているあなたの旅の道端にも、
多くのギフトがキラキラと輝きながら、
見つけられるのを待っています。

「探求の道は、苦しいことでも大変なことでもないんだよ。」

そういう風に、
私はあなたに伝えたい。


時として、実際問題として、
困難で大変な事であったとしても。。。


それは実は、光り輝くギフトの反対の側面、
例えて言うなら
コインの裏側をみているようなものかもしれません。

コインがころころと転がって、
ふと反対側の面が見えたとき。。。。。

すべてが真の存在につながる
キラキラとしたギフトだと、
気が付くかもしれません。。。



気づき始めている方が、
すごい勢いで増えています。


実生活の、私のまわりにも。
そしてメディテーションの中で感じる、
周波数の感覚の中でも。。。。



読んでくださって、どうもありがとう。

多くの方が、
輝くギフトと
真の存在への道をワクワクと楽しまれますように☆



※追記※

11月11日という日の強力なエナジーにサポートされながら書いた記事でした。

文中で昨日の夜と記しているのは、
実は既に日付は変わっていて
11月11日になっていたかもしれません。

11月11日については、
レムリアンティーチャーで、大切な友人でもある
Rieさんのブログに書いて下さっていますので、
どうぞご参照ください☆